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スペインの天才画家、パブロ・ピカソの愛多き人生 出生から青の時代まで

      2019/05/15

スペインは天才が多く生まれる国です。その中でも一番有名なのがパブロ・ピカソでしょうか。ピカソは人間的にも大変魅力を持った人です。ピカソが亡くなった時、後追い自殺をした女性も居るほどですから。そんな天才ピカソの生き様に迫ります。

 

典型的なラテン男のピカソは生涯を通して女好きだった

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ピカソとは何者なのか?まずはそこから始めましょうか。 画家であり、彫刻家であり、陶芸家であり、版画家。詩人でもあれば劇作家、舞台装飾家でもあり、更には熱心な共産党員でもありました。

ピカソと言えばキュービズム、そう考える方が多いかと思います。でもピカソは長い人生の中で、キュービズムだけでなく、驚くほど様々な画風で絵を書いています。それが「ピカソは一体何人居るんだ?」と言われる由縁でもあります。

付き合っている女性を変えるたびに画風を変えた、とも言われるので、ピカソを語るのに彼が愛した女性達は大変重要な鍵となります。その関係は深く、そして激しく。ピカソは画風を変える程に彼女達から影響を受け、同じように彼女達に大きな影響を与えました。ピカソが亡くなった時、後追い自殺をした女性も居る程です。

ピカソとピカソの愛した女性達に関しては、まだ読み終わって無い本が沢山あるので整理して次ぎの機会にまとめてみようと思います。 あ、でも、1つだけ。女性に関してスペインのもう一人の天才画家ゴヤと常に比較されるピカソです。この二人はまさに日本人の皆様がイメージするラテンそのままの男たち。両者共に死ぬまで現役を貫いたツワモノ達でした。  

 

バルセロナVSマラガ、ピカソはどの街のものなのか

ピカソは人生の大半をフランスで過ごしました。でもピカソ自身がスペイン人である事をとても重要に思っていたので、ピカソがスペインのモノである事は確かです。でも生まれ故郷であるマラガ、そして青春時代を過ごし芸風に多大な影響を与えたバルセロナ、どちらがよりピカソなのかを決めるのはとても難しい。

バルセロナには世界的に有名なピカソ美術館があります。ピカソにまつわるモノが多く残るバルセロナなので、ピカソ目当てにバルセロナを訪れる方も多いかと思います。

でもピカソはスペイン南部、アンダルシア地方のマラガで生まれました。 マラガの激しい太陽と光輝く地中海は、幼いピカソの心に深く強く刻み込まれています。そして何よりも3歳の時に父親に連れて行ってもらった闘牛が生涯に渡って彼を虜にしました。

後にピカソが南フランスの地中海沿いから離れられなかった理由を、闘牛(南フランスにも闘牛があります)と彼が無意識の内に見出していた「心のマラガ」が南仏にあったからだ、と言われています。

私はマラガからスペイン留学を始めました。とても愛着のある街なので私的にはピカソ、マラガのものにしておきたいです。

 

天才は生まれた時から天才 ピカソ幼少時代

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ピカソはマラガで生まれました。ピカソはどんでもなく長い名前を持つことでも有名です。パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピーン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ。最終的には本人も周りも「ピカソ」とだけ名乗るようになりました。

1891年、ピカソ一家は父親がラ・コルーニャへ絵の教師として派遣されたのを切っ掛けに引っ越します。画家としては二流であったピカソの父ですが、色々な影響をピカソに与えました。例えばピカソの鳩、とても有名ですよね?ピカソの父親は鳩を書くのが大好きなんです。ピカソもそんな父親の影響を受け、生涯に渡って鳩を書き続けました。

ラ・コルーニャの街は、スペイン北部の海岸沿い、ガリシア地方にあります。日本の原風景を思わせるような、緑深く、雨の多い地域。ピカソが生まれ育ったマラガとは全く正反対の気候と風土を持つ街です。そんなラ・コルーニャに移り住んで直ぐ、ピカソをある悲しい出来事が襲います。

とても可愛がっていた妹のコンチータが4歳で亡くなってしまうのです。ピカソは大きなショックを受けました。生涯最愛の妹の事を忘れる事なく、1935年に生まれたピカソの最初の娘の名に、その亡くなった妹の名前を付けています。

1895年、二流画家であった父親にバルセロナでの仕事が舞い込みます。当時バルセロナは芸術の都として黄金時代を築いていました。ラ・コルーニャでの仕事を即座に、躊躇無く捨て去り、ピカソ一家はバルセロナへ向う事になりました。

この時代に書いた「La primera comunion」(1896)が、バルセロナのピカソ美術館にあります。ピカソは「俺は子供の頃、まるでラファエロのように絵を書いたもんだ。」なんて豪語していますが、 全くもってその通りです。

天才とは、生まれながらにして天才なのだとシミジミ思えるような絵です。そんな彼の原点を見にバルセロナのピカソ美術館を訪れる事は大変お勧めなのですが、ピカソはマラガのモノとの認識を忘れないで下さいね。

 

ピカソ青年時代 マドリッドとバルセロナでの刺激的な毎日

悲しみに彩られたラ・コルーニャから華やかな大都会バルセロナへと引っ越したピカソ一家。バルセロナの街は若き芸術家ピカソに大きな刺激と衝撃を与えます。そしてこの頃からピカソは野心を露わに製作活動を始めます。

1897年、マドリッドにある有名な王立サン・フェルナンド芸術協会の試験を受け、天才ですからあっさりと合格します。しかしその天才故に名門中の名門である協会の授業に不満を持ちます。結局合格した年の冬には協会を脱会してしまいました。

この時期、ピカソはプラド美術館にある絵を何枚も模写し、特にエル・グレコに傾倒していたようです。でもプラド美術館でピカソが一番影響を受けていたのはやっぱりベラスケスのラス・メニーナス。色々な技法と構図を使って、何枚も何枚もラス・メニーナスを元にした作品を描いています。

父親と折り合いが悪くなったのもこの頃です。失礼ですが二流画家故に天才の気持ちを理解する事が出来なかった模様。ピカソは父親と初めて大喧嘩をし、マドリッドから再びバルセロナに一人で戻りました。

バルセロナでは4匹の猫(El cafe Els Quatre Gats)に足繁く通うようになります。パリの「黒猫(シャ・ノワール)」のパクリだと思われるこのカフェは当時バルセロナの芸術家、文化人の溜まり場となっていました。後にピカソはこのカフェで最初の個展を開くことになります。このカフェは今でもバルセロナに残っていて多くの観光客を集めています。  

 

ピカソ、フランスへ旅立つ

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当時芸術はフランスのパリを中心に周っていたので、若き天才ピカソは並々ならぬ思いをパリへ募らせます。パリを征服する野心もひとしおです。

当時パリで活躍していたルノワール、ロートレック、ゴッホやセザンヌにピカソは大きな影響を受けました。全ての画家のタッチを模写していますが特にセザンヌへの思い入れが強かったようです。

1900年10月、親友のカルロス カサヘマスと共にピカソはパリへ旅立ちました。カルロスはGermaineという名のモデルに恋をしますが決して叶わぬ恋でした。12月、その不運な恋を忘れようとカルロスは一人スペインへ帰国します。帰郷し陽気なアンダルシアの娘達に囲まれて暮らしてもカルロスは傷心を癒す事ができませんでした。

パリへ戻ったカルロスは 再び苦しい恋に身を焦がせ、疲れきり、その年の2月17日、とあるカフェで自殺してしまいました。親友の自殺は、ピカソに大きな衝撃を与えました。1901年代の彼の絵には、カルロスの惨劇が繰り返し繰り返し描かれています。その中でも有名なのが、エル・グレコ代表作でもある「オルガス伯爵の埋葬」を下絵にして書いた「(カルロス)カサヘマスの埋葬」です。

死に対しての複雑な寓意を持たせたこの絵は、人生の喜び、栄光、そして悲しみと亡骸を下部に描き、愛の高揚、興奮、賞賛を天上に配した構図になっています。 この頃からピカソの名は徐々に知れ渡るようになり、彼をスターダムに押し上げた青の時代へと突入するのです。  

つづく

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