世界食べ尽くしの旅 

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バルカン半島の穴場ボスニア・ヘルツェゴビナの悲しい歴史を持つサラエボの街

      2021/10/11

1993年、あなたは何をしていましたか?サラエボでは戦争をしていました。あんなにも美しい街で、人々は殺し合いをしていました。ヨーロッパ在住20年のフードライターが世界中を食べ尽くすの記録。今回訪れたのはボスニア・ヘルツェゴビナ。首都サラエボの街は悲しくて切なくて、もう胸がしめつけられっぱなし。

墓標だらけのサラエボの街

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ボスニア・ヘルツェゴビナの首都、サラエボ
を訪れました。バスで街に入ると直ぐに気づきます。公園、空き地、畑、この街は何処もかしこも墓地だらけなんです何かこみ上げてくるものがあって顔を上げたら、街の上の方に白い塊が見えました。

雪だと思いました。それが無数の墓標だと気付いた時、心が止まりました。沢山の墓標が、数えきれない程のサラエボ市民達が、平和になった故郷を見下ろしていました。殆ど全ての墓標が199年を刻んでいるのです

1992年から1996年まで、サラエボの街は完全に包囲されていました。この街は小高い丘に囲まれています。ボスニア・ヘルツェゴビナの独立に反対したセルビア人とユーゴスラビア人民軍はそこに陣地を取りました。

街を見下ろす高台から老若男女、動くものなら猫だって何だって狙撃したのです。平均して一日329回の砲撃がありました。もっとも多かったのが1993年7月22日、3万七千七百七十七回でした。

悲しい歴史を抱えるサラエボの街

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サラエボは近年のヨーロッパで一番残酷な過去を持つ街です。サラエボの街へ続く主要な道路は閉鎖され、武器だけでなく、食料や医療品までもが調達出来なくなりました。水や電気、暖房システムも遮断されました。

孤立したサラエボの街は何もかもが不足して、そんな状態が4年近くも続いたのです。圧倒的不利な条件でボスニア政府軍は最後まで戦いました。その結果サラエボの街では一万2千人が命を落とし、5万人以上の人達が負傷したのです。

犠牲者の85%は一般市民。殺害と強制移住によってサラエボの人口は紛争前と比べて半分位になってしまいました。

突然戦場となったサラエボの街

ボスニアと言えばサラエボオリンピックを思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。1984年、共産圏で初めて開催された冬季オリンピックです。第二次世界大戦の後、サラエボは急速に発展しました。

ボスニア・ヘルツェゴビナは「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持つ1つの国家」と表現されていました。異なる宗教を持つ、様々な民族達が共存して暮らす、世界の都市モデルともなる街でした。

平和で安定したオリンピックの開催地サラエボ。僅か8数年後に内戦が勃発し破壊されてしまうなんて誰が想像出来たでしょう。膨大な死者が出て、もう街の何処にも埋める場所が無くなって、平和の象徴であるオリンピック会場も墓地となりました。

遺体を埋めている間もセルビア軍からの攻撃があったので、早朝や夕暮れ時に砲撃を避けながら愛する人達を埋葬していったと言います。

平和から地獄へと急降下したサラエボの街

旧ユーゴスラビアの国々は様々な民族、文化、宗教が入り交じり複雑です。なかでも特に複雑だったのがボスニア・ヘルツェゴビナ。だからこそ紛争の傷跡が最も色濃く残る国です。

私は何時だって新しい街に着くと市場を訪れます。サラエボでも同じ事をしました。旧市街にあるマルカレ市場。何時でも人が絶えない、賑やかな青空市場です。ここにも迫撃砲が撃ち込まれ、買い物をしていた68人の市民が亡くなりました。

皆さんはサラエボローズを知っていますか。ボスニア・ヘルツェゴビナの首都、サラエボにしか咲かない花です。3人以上の死者を出した砲弾の傷跡を赤い樹脂で埋めたんです。街の至る所に永遠の花、サラエボローズが咲いています。

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未来を見据えるサラエボの街

初めて訪れた街サラエボは私の心を強く揺さぶり続けました。でもこの街はもう、悲しい過去を向いて生きてはいません。街の至る所に心を一瞬で凍らせる悲しい傷跡が残っていますが、沢山の素敵なカフェやレストラン、ショップが並び、人懐っこいサラエボ市民達が笑い声を響かせながら闊歩しています。

ヨーロッパ風の人もいれば、スカーフで顔を覆う人達もいる。紛争前のように多種多様な文化の人達が平和に暮らしています。

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