チリのイースター島のモアイに関する色々な情報、世界遺産のモアイ
2022/10/27
チリのイースター島でモアイ・ツアーのガイド通訳をしていた時に聞いた、モアイに関する情報をまとめました。ただし、今回の記事は、ややマニアックな、モアイ上級編の情報をまとめてあります。
イースター島のモアイは何の為に、どのようにして作られたのか。あれ程巨大なモアイ像が、何故全て倒されてしまったのか、などのモアイ像の基本的な情報に関しては、別記事で詳しくまとめてあるので、まず下記の記事を先に読んで下さい。
イースター島のモアイ像とは何なのか
かつてイースター島に住んでいた人達は、高層階級の人達にはマナと呼ばれる強力な精霊の力が宿ると信じていました。その人達が亡くなると、彼らのマナを何処かに留め、今まで通り村を守ってもらおうと考えました。
つまりイースター島のモアイ像とは、亡くなった権威者のマナを留めるための器で、分身です。その為すべてのモアイ像は島の内側、村の方を向いて配置されました。島や村の中にマナの力を維持する為です。
モアイが全て倒れている理由
人が増え、食料が減ると、平和に暮らしていた部族たちの間で権力闘争が起こりました。モアイは権力の象徴だったので、勝利した部族が対抗する部族のモアイを倒しました。こうしてモアイ倒し戦争が始まったのです。
モアイ倒し戦争の歴史的背景
かつてのイースター島には15の部族が存在していました。モアイを彫る部族、運搬する部族、祭壇を建設する部族、持ち上げる部族、目を作る部族、それぞれの部族が異なった役割を担い、協力して暮らしていました。
異なった役割を持つ部族が、仲良く平和に暮らしていた時代は、8世紀から14世紀頃まで続きました。時代とともにモアイが権力の証となり、より多くの、より大きなモアイを作ることで権力を誇示するようになります。
やがて競争に発展し、モアイを作る為に木が伐採され、環境破壊が起こりました。森が無くなると土壌が悪くなり、作物が育たなくなります。人口増加も加わって、食料の供給が間に合わなくなりました。
周囲を海に囲まれた絶海の孤島イースター島には、逃げ場がありません。イースター島の人達は、残された資源をめぐって戦うようになります。他の部族のモアイを倒す事は、その部族の守り神を倒すのと同じ意味を持ちます。
こうして敵のモアイ像を倒し合う戦争が起こりました。モアイの目に霊力が宿っているとされていたので、力を奪う為にモアイはうつ伏せに倒しました。そして倒したモアイの目を粉々にする事で、完全な勝利を獲得しました。
島内にあるモアイは全て倒されたので、モアイの目は全て破壊されました。奇跡的に一つだけ、原型を留める形で現存し、イースター島博物館で展示されています。そして一体だけ、レプリカですが目の入ったモアイが博物館近くにあります。
イースター島で一番有名なモアイ
アフ・トンガリキはイースター島最大規模の遺跡で、一番人気の観光地です。アフと呼ばれる祭壇の上に15体のモアイ像が並んでいて、1箇所の祭壇に乗っているモアイの数としては最大数なので世界的に有名となりました。
現在は15体ですが、かつては28体あったとされます。初代の祭壇(アフ)はサンゴで出来ていました。祭壇は3層に分かれていて、一番下の段(入り口近くまで続いているもの)の長さは250m、その上は105mあります。
祭壇に並ぶモアイ像は全て異なる時代のものです。左から右にかけて新しいモアイ像へと進化していきます。一番背の高いモアイは8.5mあり、重さは50トンに達します。
イースター島で起きた1770年代の内戦、モアイ倒し戦争で、全てのモアイが倒されました。アフ・トンガリキもしかり。そして1960年には観測史上最大のチリ地震が発生し、10mを超える津波によってモアイ像は島の内陸方向へ100m流されました。
1996年、日本のタダノ建設の支援でクレーンが寄付され、米国、チリ、日本の技術者の協力の元、アフ・トンガリキの15体のモアイが元の位置に戻されました。そんな背景があるので、イースター島の人々は本当に日本びいき。日本に対して特別な思いを持っています。
アフ・トンガリキの入り口、15体のモアイとは少し離れたところに一体のモアイが立っています。このモアイは1994年から1996年まで日本に展示されていました。イースター島の現状を世界に知らせ、募金集めを目的として日本へ送られたモアイです。
イースター島から旅立ち、きちんと戻ってきた唯一のモアイなので、島民たちからパスポートを持つモアイと呼ばれています。ちなみにイースター島からイギリスの大英博物館に連れ去られたモアイは「盗まれた友」と呼ばれています。
アフ・トンガリキとは先住民の言葉で「王の港」を意味します。イースター島には珍しく波の静かな場所なので、多くの船がこの港を使いました。イースター島の第一発見者が最初に降り立ったのもアフ・トンガリキの港です。
モアイが被る帽子はプカオ
モアイは大きければ大きいほど権力の大きさを誇示できたので、モアイは時代と共にどんどん大きくなっていきました。イースター島には頭の上に赤い帽子のようなものをのせているモアイが沢山あります。
これはモアイがより高く大きく見えるようにつけられ始めたとされます。帽子とも考えられていましたが、当時イースター島の住民がしていた髪型、髷とする説が今では大半です。
当時の島民の男性たちは髪を長くのばし赤く染めていました。なのでプカオはモアイを作る通常の凝灰岩ではなく、赤色のある凝灰岩で作りました。プカオは円形に作り、石切り場からは転がして運搬したといいます。
アフ・トンガリキのモアイもプカオをのせていたのですが、津波で全て落ちてしまいました。侵食や破損が酷く、モアイの上に戻すことが出来なかったものが、脇に別個で展示されています。
モアイに関する豆知識
モアイ像はアフと呼ばれる祭壇に乗せた後、目のくぼみを作り、珊瑚と黒曜石を使って作る目を付けました。目を付ける事によって初めてマナが宿るとされたので、目がないモアイの扱いはかなりぞんざいです。
イースター島のモアイ像は、時に何の変哲もない場所で発見されます。そのようなモアイの目にはくぼみがないので、祭壇に辿り着く前のモアイ像だったと推測されます。製造場所である石切り場から運搬途中に壊れてしまったモアイで、マナが宿る前のモアイ像には神聖さが無いので、そのまま捨て置き放置されました。
モアイを置いてある台座、祭壇の下には墓がありますが、モアイ1対に対して1人というわけではなく、その親族の遺骨も一緒に埋められています。モアイは集落の守護神的存在でもあるので、モアイのある場所には、必ず村があり、家の跡やマナ・ヴァイ(庭園)の跡があります。
イースター島のモアイは主に凝灰岩で出来ています。島に1045体あるモアイのうち、11体が女性(別のガイドによれば1体)だとされています。
モアイ倒し戦争の後、島民が奴隷として他の国に連れ去られたり、ヨーロッパ人が持ち込んだ伝染病で死んでしまったりの悲劇が続き、1877年頃にはイースター島の人口は100人程に減ってしまいました。
木片に刻まれた昔からある島の言葉、ロンゴ・ロンゴを読める人が居なくなってしまったので、島の歴史は今でも謎に包まれたままです。
イースター島の個性溢れるモアイ
すべて同じように見えるモアイ像でも、一つ一つに個性があります。イースター島を訪れたら、絶対にみるべきモアイ像のリストを作りました。イースター島の魅力はモアイだけではありません。モアイ以外のイースター島の見所も紹介します。
イースター島のモアイに関する基本的な詳細は、別記事でまとめてあります。まずはこの記事を読んでから、マニアック系の記事を読まれる事をおすすめします。