世界食べ尽くしの旅 

世界のグルメ、観光名所、世界遺産、色々な世界の情報を詰め込んだブログ

イースター島のモアイは何故作られたのか、モアイの謎、日本との関係

      2022/08/24

チリのイースター島でモアイ・ツアーの通訳として働いていた際に見聞きした、博識のガイドさんの素晴らしい解説をまとめました。イースター島の巨大なモアイ像は何故作られ、何故倒されたのか。モアイと日本のただならぬ関係も解説します。

イースター島でモアイが作られた理由

世界七不思議の一つである、イースター島のモアイ像。未だ謎が多いのですが、最近の科学的な調査で色々な事が分かってきました。モアイの台座から多数の人骨が発見され、モアイは重要な人物のお墓の役割を持つ事が判明したのです。

モアイ像は亡くなった族長や英雄を敬う為に作られたので、各個人を具象化しています。この習慣はイースター島だけでなく、広くポリネシア文化圏の島々で見る事の出来る習慣なのだそう。

先祖を祀ると同時に、モアイ像には村を守る守護神的な役割もあったとされます。モアイの目にはマナと呼ばれる超人的なパワーが宿ると信じられていたので、モアイは常に海を背にして、集落に顔を向け村人を見守るような形で配置されました。

島の人口が増加すると部族が分かれ、酋長が多数出現するようになります。より大きなモアイを作る事が、より力の強い酋長の証とされました。イースター島民の精神的な支えであったモアイ像は、こうして権力争いに利用されるようになりました。

イースター島のモアイの謎

イースター島には約1000体のモアイ像があるのですが、殆ど全てが倒れています。かつてのようにきちんと立っているモアイ像は島全体で40体ほど。その全てが20世紀以降、日本をはじめ各国と地元の人達が協力して立ち上がらせました。

これほど巨大で数多くのモアイ像が、どうして全て倒れていたのでしょうか。かつてのイースター島は、ヤシの木が島全体を覆うように生い茂っていました。権力の誇示からモアイ像が沢山作られるようになると、モアイの運搬などで大量のヤシの木が伐採され、終には無くなってしまいます。

ヤシの木の森が消滅した事で、土地が痩せて作物が育たなくなり、食糧が不足するようになりました。こうして平和に暮らしていた島内の部族の間で、戦いが生じるようになったのです。

部族間で抗争が始まると、権力の象徴であったモアイが標的となります。マナの力を破壊して士気を奪うために、勝利した部族が負けた側のモアイ像を倒す「フリ・モアイ」と呼ばれる戦争が激化しました。その結果1840年頃には立った状態のモアイが全くなくなってしまいました。

倒されたモアイはそのまま放置され続けました。1960年には計器観測史上世界最大となる、マグニチュード9.5のチリ地震がイースター島を襲います。海沿いにあった多くのモアイ像は、地震による津波で流され破壊され、埋もれてしまいました。

日本とイースター島とモアイの関係

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 2-3.jpg

イースター島をブラブラしていると、地元の人達が満面の笑みでモアイ像を指さして「ハポン(日本)」と連呼しながら拍手をしたり、握手を求められたりします。最初は全く意味が分かりませんでした。

話を聞いてみると、モアイ像と日本、実は密接な繋がりがあったのです。1992年、日本の「世界不思議発見」というテレビ番組でイースター島の特集が組まれました。

当時の知事が「クレーンさえあればモアイ像をもう一度立たせてあげる事が出来るのに・・・」と訴えました。その番組を偶然見ていたクレーン製造会社、タダノの社員が反応し、社長にかけあったです。

当初タダノ社は倒れているモアイ像全てを立ち上がらせようとしました。しかしそれには莫大な時間と費用が必要な事が判明します。モアイの状態がかなり悪かった為、クレーンを使ってただ立たせるだけでは不十分でした。

考古学者による専門の調査と監査の元、石のプロフェッショナルによる修復作業も同時進行で必要だったのです。最終的にイースター島で最大規模の遺跡である、アフ・トンガリキの15体のモアイを立て直す事になりました。

アフ・トンガリキのモアイ達は部族間抗争で倒された後、チリ地震による津波で内陸方向に流され破損し、そのまま放置され風化が進んでいました。タダノ社は日本から自社クレーンをイースター島に持ち込んだだけでなく、修復費用も含めた全てを出費しました。

総額はなんと1憶8000万円。その後も故障したクレーンに代わる新しいクレーンを寄付したり、タダノ社の貢献は続いています。イースター島最大規模の遺跡が修復された事により、ユネスコの世界遺産にも登録されました。

これを切っ掛けに多くの観光客が訪れるようになったので、イースター島の経済が潤いました。今あるイースター島の発展は、日本の一企業の多大な貢献の賜物だったのです。そんな理由があるので、イースター島の人達は日本人にとても好意的です。

タダノさんのお陰でアフ・トンガリキのモアイ達は立ち上がったのですが、頭の上にのっていたプカオと呼ばれる赤い帽子のようなものは、残念ながらそのままの状態で放置されました。

考古学者も含め色々と検証されたのですが、どのプカオがどのモアイに属するのか判明できなかったからです。15体のモアイ像の後ろには、非常に古い年代の小さなモアイも鎮座します。そちらもどうぞお見逃しなく。

イースター島のモアイ像の大きさ

モアイ像は作られた年代によって大きさが異なります。作られ始めた初期のモアイ像は3mに満たない大きさだったのが、14世紀には5メートル級の像となり、終盤の16世紀となると更に巨大化して10メートルを超えるようになります。

後期のモアイはただでさえ大きいのに、プカオと呼ばれる赤い石が頭上に乗せられるようになり、更に大きくなりました。より効率的な運搬方法が確立された事に加え、部族間の競いが更に激しくなっていった証拠です。

イースター島のモアイの素材

イースター島のモアイ像は、島の東部にあるラノ・ララクと呼ばれる凝灰岩の岩山を削って作られました。凝灰岩とは火山灰が堆積して出来た岩石で、もろくて軽いのが特徴です。

モアイの素材となった柔らかい凝灰岩は、加工には適していたのですが細かい細工には向いていません。だからこそモアイ像は至ってシンプル。でもその素朴さこそが、モアイ像の大きな魅力の一つだと思います。

モアイ像の本体はラノ・ララクの凝灰岩で作られますが、プカオと呼ばれるモアイの帽子のようなものは赤色凝灰岩で作ります。現在本物の目が付いているモアイは存在しませんが、目の白目の部分は珊瑚(モアイの研磨にも使用しました)、黒目の部分には黒曜石を使いました。

モアイの作り方、動かし方

島にある殆ど全てのモアイ像が、ラノ・ララクで作られました。島には鉄が存在しなかったので、硬い玄武岩で作ったトキと呼ばれる岩の手斧を使って、モアイを岩山から切り出して作りました。

10mを超えるモアイを作るのに、15人以上が毎日作業して2年かかったとされます。巨大なモアイ像は、作るのも大変ですが動かすのだって至難の業。クレーン車もトラックもなかった時代に、これだけ巨大なモアイ像をどのように動かしていたのでしょうか。

イースター島のモアイ像は、何処でどのようにして作られたのか、モアイ製造工場であるラノ・ララクに関する情報や、モアイ像の作り方、動かし方など、イースター島のモアイに関する詳しい情報を別記事でまとめてあります。

多くのモアイが土に埋まっている理由

日本のタダノさんのお陰で、アフ・トンガリキにあるモアイ達は立ち起こされましたが、ラノ・ララクのモアイ製造工場にあるモアイ達や、その他多くのモアイは未だ土の中に埋もれています。

イースター島でのモアイ像の製造は、様々な理由によって17世紀頃には廃れました。ラノ・ララクの石切り場もまた、製造途中のモアイと共に放置されます。長い時間の経過の中で、火山の噴火もあった事から多くのモアイ像が土に埋まってしまいました。

近年、研究のために掘り起こされたモアイもありますが、保管する場所を作る資金がありません。浸食(風化)防止には土の中にある方が良しとされたので、多くのモアイが埋められました。

凝灰岩ではないモアイ像

数は少ないのですが、花崗岩や赤色凝灰岩などの別の素材で作られたモアイ像も存在します。イースター島の1000体近くあるモアイ像の中で10体にも満たないので希少価値があります。赤っぽいモアイを見かけたら是非注目してみて下さい。

イースター島で最大のモアイ像

モアイを作った場所、ラノ・ララクにはイースター島最大のモアイ像があります。高さ21.6m、重さ180t。肩から下の部分は土の中に埋まっていますが、顔の大きさだけでその巨大さを実感できるかと思います。

イースター島内で立っているモアイ像の中で一番大きなものが11m、平均すると5m位のモアイ像が多いので、圧倒的な大きさです。製作途中で放棄されたので完成形ではありません。それでも肩から下の部分も、土に埋もれているだけで形にはなっています。

全てのモアイには名前が付けられていたのですが、現段階で名前が明らかなのは全体の僅か5%。このイースター島最大のモアイは、ピロピロと呼ばれていた事が判明しています。

イースター島唯一の足のあるモアイ像

ラノ・ララクの石切り場の一番奥には、ノルウェー人の学者が掘り出した正座をするモアイがいます。足まであるモアイ像は、イースター島でこの一体のみ。ポリネシア系民族が太平洋を渡る際、カヌーの中でとっていた姿勢を描写したとされています。

正座のモアイ像は、顔が丸いこと、首まで埋まっていたこと、その浸食度合から一番最初に製造されたモアイだと推測されています。バランスが取れずに運ぶことができなかったので、その後この形が採用されることはなかったとされています。

イースター島のモアイは謎だらけ

イースター島には文献が殆ど残っていないので、モアイは多くの謎に包まれています。宇宙人がやって来て、文明交流の為にモアイ像を沢山置き土産にした、なんて真面目に発表する研究者もいる位です。謎だらけだからこそ、多くの人達を魅了して止まないのかもしれません。

絶海の孤島と呼ばれ、世界から切り離されていても、日本とは何気に繋がりが強かったチリのイースター島。モアイ像だけでなく、美しい景色と親日家の人懐っこい人達で溢れた本当に素敵な島です。

モアイ以外のイースター島の魅力

学校の教科書で見てから、ずっと会いたいと思っていたイースター島のモアイ達。やっと念願が叶いました。イースター島最大の魅力はモアイですが、モアイ以外にも見所は沢山あります。

イースター島のモアイ以外の観光名所、イースター島への行き方、物価、食べ物など、イースター島に関する全ての情報を別記事で詳しくまとめてあります。同じようでいて実は全く異なる個性豊かなモアイ達。イースター島にあるマニアックなモアイ達についても解説します。

 - まとめ記事, チリ, 世界の観光と文化, 中南米, 北極・南極・その他 , , ,